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第十五回 ◆半角P「『バッドコミュニケーション』を見ろ!」

狂ってしまうというのは、案外簡単なことです。

例えばそれは、こういうことです。


あるとき、私はビル風に舞う一枚の白いビニール袋を見ました。

何の変哲もないただのビニール袋が、あるべき場所に捨てられなかったばかりに堂々と風に舞うことを許されていました。

突如現れた風とビニール袋が織りなすロンド。

ある種ありふれたその光景に、しかし、私は視線を奪われました。

それは美しかったのです。

ただ、美しかったのです。

まるで小さな子供が楽しそうにはしゃぎ回っているようなその姿は、いきおい、私に語りかけます。

『一緒に遊ぼうよ』と。


狂ってしまうと言うことは、その誘いを受け入れてしまうことなのでしょう。

それは幻聴であり、幻視であり、異常な出来事です。

それでも人は確かにそれを感じる瞬間があると私は思います。

通常と異常とはそれを受け入れるかどうか、ただそれだけの差なのだと思うのです。




コバヤシ氏
『バッドコミュニケーション』シリーズ(2012 4/18~2012 6/30)




本作で描かれるのは、異常と妄想とが混じり合う「狂った」世界です。

このような作品がそれでも受け入れられるのは、ひとえにニコマスの懐の深さにあると言えるでしょう。

PVにしても架空戦記にしても。あらゆる手法やジャンルを飲み込んで、ニコマスは肥大化してきました。

当然、それはノベマスであっても変わりません。

本作は、そういうニコマスの特徴が生み出した作品であると言えます。


まずは形式的な話を少しします。

本作は、2012年4月に突如として現れ、同年6月に全16話で完結しました。
作者であるコバヤシ氏(P名はついておりません)は、現在まで、本作以外の投稿はありません。

本作の公開マイリストには、コバヤシ氏のコメントが記載されていますが、その記載が描くのは作品の世界をそのまま反映したかのような独特(としか形容のしようがありません)な世界観です。

このような、本作のマイリストと投稿動画のみが存在するユーザーページは、このアカウントが、本作を投稿するためだけに作られたのではないかとの印象すら与えます。

以上のように形式面だけをみてもある種、異常な世界観を持つ本作の魅力を、一言で表現しようと思うなら、私なら「不合理が織りなす何とも言えない快感」とでもいうべきでしょうか。

前述したように、本作が描くのは、異常と妄想とが混じりあう狂った世界です。

本作では、14人のアイドルとPとが交わしているコミュニケーションの一場面が一人ずつ描かれます。

そしてそれはタイトルの示すとおり、決してグッドコミュニケーションではありません。まして、パーフェクトであるはずがありません。

表層的に交わされる言葉の裏腹で、Pとアイドルの感情の交流が成功することはありません。

その原因については、実は、プロローグから毎回示唆されています。

それは、「Pが狂っているのではないか」という点にあります。

このように書くと、このお話は「狂ったプロデューサーとアイドルの狂った会話」であると考える方もいるでしょう。

ですが、本作の魅力はそこだけにとどまりません。


そもそも本作を読み始めたときに最初に感じる違和感。

それは「このお話はどこまでが現実なのだろうか」という違和感です。

本作は、プロローグで今後展開される話がすべて妄想なのではないか、という視点が示されます。

これを「妄想性の提示」とでも言いましょうか。

この「妄想性の提示」は、しかし、同じプロローグ内ですぐにいったんは否定されます。

ですが、否定されたはずの「妄想性の提示」は、作品が進むにつれてより強く存在感をしめすようになります。

それは、各回のラストに示される

『現実はゲームみたいにうまくはいかないものだ。 ああ、頭が痛い・・・・・・』

という一文の存在が原因となっています。

「頭痛が示す現実性」とも言えるこの一文は、文面通り読めば、「妄想性の提示」を否定する文言であると読めます。

しかし。

この「頭痛が示す現実性」は、毎回毎回、あきれるほど繰り返されます。
まるで何かに対する免罪符であるかのように。

さらにです。

そのようにして繰り返される「頭痛が示す現実性」が、たった一回だけ登場しない回が存在します。

私には、その回の存在が「頭痛が示す現実性」の意味を転回させているように思えてならないのです。

「頭痛が示す現実性」に登場する「頭痛」は本作を語るときに外すことができないキーワードです。

そして、「頭痛」がメタファーであるのは明らかです。

しかし、それは何のメタファーであるのでしょうか。

私は最初、「現実」のメタファーであると考えました。

妄想と現実が危ういバランスで描かれる本作において、頭痛を感じるPの存在が、「妄想性の提示」を否定しているのだと感じ取っていました。

しかし、すべての作品を見終えた後には別の印象を抱くようになりました。

「頭痛」は「妄想」のメタファーなのではないかと。

本作で現実が描かれているのは、「頭痛が示す現実性」が存在しないただ一度だけではないのか、と。

この考えが正しいとすると、本作はたった一度の現実と「14」(私の解釈では「15」ではありません。)の妄想によって成立していることになります。

作中の現実性すら否定した上で、作者であるコバヤシ氏が「伝えたかったもの」はいったい何なのでしょうか。

あるいは、そういった「伝えたかったもの」の解釈すら否定することが目的であるのでしょうか。

もし、そうだとすれば、本作はシリーズ全体で(作者と読者の)バッドコミュニケーションを描いているともいえるかもしれません。

もちろん、以上の解釈は私の独自のものであり、いくつか欠点はあります(もっとも大きいものはエピローグの存在でしょう。これについての私なりの解釈はありますが、ネタバレになりますのでここでは割愛させていただきたいと思います)。

ただ、たとえそのような解釈が成立しなかったとしても、それでもたった一つだけ言えることがあると思います。

それは、本作をすべて読了した後に感じる言いしれぬ不安感です。

異常と正常、現実と妄想、それらの境界を否定されて、ただ「不合理な世界に」投げ出された不安感。

本作をすべて読了した方の大半は、このような不安感を感じるものでは無いかと思います。

この不安感は、人によっては拒絶や嫌悪を抱かせるものでしょう。

しかし。

私にはその、不合理が織りなす不安感が、何とも言えず快感なのです。

たとえるなら。

それは、妄想が、狂気が、『一緒に遊ぼうよ』と私に語りかけてきたときに感じる感覚に似ています。

妄想も狂気も、いっそその世界に浸れたらそれはとても気持ちのいいことだと思いませんか?
本作は、その快感を少しだけ味わうことが出来ると思います。


そんな風に不合理が織りなす不安感を快感ととらえることが出来る(私のような)人にとって、本作はやみつきとなること請けあいです。

狂気と異常に興味を持つ方は是非ごらんいただきたいとおいます。

そして。

見終わった方は、狂気と妄想の世界で私と『一緒に遊びしょうよ』。

私はいつまでもお待ちしております。

ビニール袋とロンドを踊りながら。





◆半角P

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